未完成の言葉の欠片 / ※印は要注意orネタバレ / 二次はクリア後前提です
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2026.04.04 Saturday
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ハピネス・ケイジ
2007.11.11 Sunday
マダム・マッダレーナの有する、所謂〈紳士の社交場〉〈背徳の館〉から連れ出され、異邦の少女が与えられたのは瀟洒なアパルトマンの一層(フロア)。公園の傍ら、中産階級が多く居を構える辺り。帝大にも近く、窓から望めるひとつ筋向こうの古書店には学生らしき姿をよく見る。
ここを訪れるのは、本来の主と、通いの女中と、女家庭教師(ガヴァネス)達だけだ。家庭教師は皆、身分卑しからぬ爵位持ち(いえがら)の貴婦人ばかり(後に知ったことだが、かつて貴族が貴族を教育していた頃、上流階級女性にとって家庭教師は唯一の名誉な職だったらしい。今や彼女達は〈完璧な淑女〉として労働から手を引き、ガヴァネスは専ら力を付けた中流富裕層の職業となった。しかしそれを選ばなかったのは彼の信条によるものなのだろう)。読み書き、文法、発音は毎日一から習う。礼儀作法に詩作朗読に宮廷舞踏(コート・ダンス)、そして週に二度のピアノ・レッスン。
しかし今日は肝心のピアノ教師(フラウ・フォン・ローエングリン)が休みだ。
それを告げにやってきたのは、彼女を苦界から連れ出した青年本人だった。中年の女中が迎え入れた銀の髪の青年を「せんせい」と消え入りそうな声で少女が呼べば、彼はピアノを指し示す。今日一日、フラウの代理だと言う。緊張気味に彼女は楽譜を掻き集めて、ピアノの前に座る。
スケールとアルペジオで手を慣らし、彼が選んだのは古典派の練習曲(エチュード)。人差し指の先が拍を取るようにピアノの外郭を叩く。
危なっかしげな指使いで、少女は譜面を追っていく。先週、フラウと復習(さら)ったばかりの作品集だ。フランシス・セルベルの『二十の練習曲』の一。この作品集(セルベル)は少女の進度にはまだ早いが、耳慣れた曲目が揃っているので馴染みやすかろう、という選択理由だった。
鍵盤と楽譜、交互に視線を行ったり来たりさせながら、少女は必死に黒い音符の群れを追い駆ける。作品集を、前から順番に。一曲目と二曲目はたどたどしさは残るものの巧くいった。彼は運指やペダル使いの、最低限の指摘しかしない。それも、一曲を最後まで自由に弾かせてから、だ。フラウ・ローエングリンのレッスンでは中途で止められることが普通だったから、少し不安になる。
そして、三曲目。別名を『エステルのための小作品』といい、セルベルが早熟な己の姪のために作った練習曲だ。『二十の練習曲』の中でも特に有名な旋律を持つ。けれどこの曲の中で、どうしても一箇所、詰まってしまう部分があった。何度も間違いすぎて、そこに差し掛かると勝手に指が強張ってしまうのだ。完全に癖になっている。
今回も、固まった指先が跳ねた。
注意を受けるよりも先に、急いで彼女は一小節手前に戻って弾き直す。“先生”は口を挟むこともなく、黙って少女に演奏を続けさせる。そしてD.C.(ダ・カーポ)から冒頭に戻り、再び同じ箇所。
(また、おなじところを)
鍵盤の上に置いた五指が震える。顔を上げることができない。傍らに立った彼の、右手を持ち上げる気配。
叩かれる!
身構えてきつく目を瞑る。しかし幾ら待っても、覚悟していた衝撃が訪れることはなかった。
恐る恐る、ゆっくりと薄目を開く。楽譜(スコア)をめくる音。一枚前のページへ。白手袋に包まれた指先が五線譜の上をなぞる。外界の物に触れるのを厭うように、彼がその手袋を外すことはない。
「もう一度」
彼は気分を害した風でもなく、淡々とそう口にしただけだった。
「どうした?」
不安げに面を上げれば、見下ろされた双眸を直視してしまう。仰いだのは冴えた夜の月のような、空を透かした氷のような、そんな瞳だった。灰がかった淡い淡い青。温度のない薄氷(うすらい)の色。それを向けられると、まるで自分の躰が透明になって、芯の部分まで見透かされているような錯覚さえ覚える。
「疲れたか」彼は言い、ウェストコートのポケットから銀の懐中時計を取り出した。「もうすぐ二時間だ、休憩にしよう」
「……だいじょうぶ、です」
彼女は慌てて否定する。だが、彼は少女の小さな声など意に介さぬように、呼び鈴を鳴らす。
「茶を」
程なくして現れた女中にそう命じて、青年はソファに腰掛けた。そしてピアノの傍から動けないでいる黒髪の少女に視線を向ける。
「帰蝶」
名前を呼ぶ声。あの日、彼に与えられた名を。
気紛れの恩寵、指先から戯れに施されるひと垂らしの慈悲。期待などしてはいけないのだと、頭の何処かが冷静に命じている。いつ捨てられるかわからない、いつ捨てられてもおかしくない。大人は上手にうそがつけるのだ。――自分を売った継母のように。
お互いに本当の名も知らぬまま、そうして静かな一日は暮れていく。
ここを訪れるのは、本来の主と、通いの女中と、女家庭教師(ガヴァネス)達だけだ。家庭教師は皆、身分卑しからぬ爵位持ち(いえがら)の貴婦人ばかり(後に知ったことだが、かつて貴族が貴族を教育していた頃、上流階級女性にとって家庭教師は唯一の名誉な職だったらしい。今や彼女達は〈完璧な淑女〉として労働から手を引き、ガヴァネスは専ら力を付けた中流富裕層の職業となった。しかしそれを選ばなかったのは彼の信条によるものなのだろう)。読み書き、文法、発音は毎日一から習う。礼儀作法に詩作朗読に宮廷舞踏(コート・ダンス)、そして週に二度のピアノ・レッスン。
しかし今日は肝心のピアノ教師(フラウ・フォン・ローエングリン)が休みだ。
それを告げにやってきたのは、彼女を苦界から連れ出した青年本人だった。中年の女中が迎え入れた銀の髪の青年を「せんせい」と消え入りそうな声で少女が呼べば、彼はピアノを指し示す。今日一日、フラウの代理だと言う。緊張気味に彼女は楽譜を掻き集めて、ピアノの前に座る。
スケールとアルペジオで手を慣らし、彼が選んだのは古典派の練習曲(エチュード)。人差し指の先が拍を取るようにピアノの外郭を叩く。
危なっかしげな指使いで、少女は譜面を追っていく。先週、フラウと復習(さら)ったばかりの作品集だ。フランシス・セルベルの『二十の練習曲』の一。この作品集(セルベル)は少女の進度にはまだ早いが、耳慣れた曲目が揃っているので馴染みやすかろう、という選択理由だった。
鍵盤と楽譜、交互に視線を行ったり来たりさせながら、少女は必死に黒い音符の群れを追い駆ける。作品集を、前から順番に。一曲目と二曲目はたどたどしさは残るものの巧くいった。彼は運指やペダル使いの、最低限の指摘しかしない。それも、一曲を最後まで自由に弾かせてから、だ。フラウ・ローエングリンのレッスンでは中途で止められることが普通だったから、少し不安になる。
そして、三曲目。別名を『エステルのための小作品』といい、セルベルが早熟な己の姪のために作った練習曲だ。『二十の練習曲』の中でも特に有名な旋律を持つ。けれどこの曲の中で、どうしても一箇所、詰まってしまう部分があった。何度も間違いすぎて、そこに差し掛かると勝手に指が強張ってしまうのだ。完全に癖になっている。
今回も、固まった指先が跳ねた。
注意を受けるよりも先に、急いで彼女は一小節手前に戻って弾き直す。“先生”は口を挟むこともなく、黙って少女に演奏を続けさせる。そしてD.C.(ダ・カーポ)から冒頭に戻り、再び同じ箇所。
(また、おなじところを)
鍵盤の上に置いた五指が震える。顔を上げることができない。傍らに立った彼の、右手を持ち上げる気配。
叩かれる!
身構えてきつく目を瞑る。しかし幾ら待っても、覚悟していた衝撃が訪れることはなかった。
恐る恐る、ゆっくりと薄目を開く。楽譜(スコア)をめくる音。一枚前のページへ。白手袋に包まれた指先が五線譜の上をなぞる。外界の物に触れるのを厭うように、彼がその手袋を外すことはない。
「もう一度」
彼は気分を害した風でもなく、淡々とそう口にしただけだった。
「どうした?」
不安げに面を上げれば、見下ろされた双眸を直視してしまう。仰いだのは冴えた夜の月のような、空を透かした氷のような、そんな瞳だった。灰がかった淡い淡い青。温度のない薄氷(うすらい)の色。それを向けられると、まるで自分の躰が透明になって、芯の部分まで見透かされているような錯覚さえ覚える。
「疲れたか」彼は言い、ウェストコートのポケットから銀の懐中時計を取り出した。「もうすぐ二時間だ、休憩にしよう」
「……だいじょうぶ、です」
彼女は慌てて否定する。だが、彼は少女の小さな声など意に介さぬように、呼び鈴を鳴らす。
「茶を」
程なくして現れた女中にそう命じて、青年はソファに腰掛けた。そしてピアノの傍から動けないでいる黒髪の少女に視線を向ける。
「帰蝶」
名前を呼ぶ声。あの日、彼に与えられた名を。
気紛れの恩寵、指先から戯れに施されるひと垂らしの慈悲。期待などしてはいけないのだと、頭の何処かが冷静に命じている。いつ捨てられるかわからない、いつ捨てられてもおかしくない。大人は上手にうそがつけるのだ。――自分を売った継母のように。
お互いに本当の名も知らぬまま、そうして静かな一日は暮れていく。
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happiness cage
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