[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「あのような小娘、ましてや東の蛮族を本気で后に入れられると?」
帝城の一角、皇帝の執務室。落ち着いた調度に囲まれた室内とはそぐわぬ、怒気に荒んだ声が響き渡る。部屋の主に詰め寄るのは保守派の高位貴族だ。
「既に決まったことだ」
机を取り囲む男達の問いを、皇帝はすげなく突き撥ねる。
「現に彼女は東国からはるばるこちらまでやってきているのだし、そもそも、一国の女王を手に入れたと喜んでいたのは卿らの方ではないか」
「その『女王』があのような幼い娘だと、我々は聞いておりません!」
「俺だって聞いていない」
執務机の上に両肘を突き、嘆息を零しながら彼は口にした。互いの利益のためには言葉も話せぬ赤ん坊とでも華燭を挙げるのが政略婚の習いとはいえ、実際に誰がそれをするのか考えてみろ、と言いたい。斜め後ろに控える従者にちらりと視線をやるが、青年は澄まし顔で我関せずを通している。
長らく鎖国体制を敷いていた極東の神秘の小国と、正式な通商条約を結び国交を開始したのが数年前。両国友好の象徴として、先だって大洋を渡って嫁してきた慶紹国の『女王』は、どう見積もっても十代の半ばを過ぎぬ 東洋系は幼く見えるというから、実際はもう少し上なのかもしれないが 少女だった。小柄な、初等学校の生徒ほどの背丈で、結い上げもせず背に流した長い黒髪や切り揃えられた額髪が余計に稚さを助長させている。直接言葉を交わした彼自身が、女王の傍仕えの童女かと勘違いしたほど。
友好と言えど、国力の差は目に見えたもの、恭順の証左として寄越させたようなものだ。それと引き換えに帝弟が慶紹国へと渡ったが、彼は妾腹であり蟄居を命じられていたも同然の人間、体よく国外へ追い出したように見られていることだろう。
慶紹に赴いた外交官達は、社の奥深くに住まう『女王』の姿を一度も目にしていないという(同国の高官の前にさえ滅多と姿を現さないという予見の巫女姫が、どうして異国の人間である彼らに顔を見せようか)。みすみす主上を差し出すことをよしとしない慶国の意地で、替え玉を謀られていたとしても、それを証明する材料を帝国側は持ちえない。
「慶国に誑かされたのやもしれませんぞ、陛下」
「どういうことだ?」
「慶国の女王、未来視(さきみ)の巫女やらという触れ込みもこうなれば怪しいもの。……いや逆に流石は東夷というべきか、あのような小娘に国政を任せるような愚昧を冒すとは、何とも辺境の蛮族にしか考え付かぬ暴挙ではありませんか」
「アル」
ふわりと影が動いたのと、至上の主が短く言葉を発したのは、ほぼ同時だった。常の様相を知らぬ者からすれば、皇帝が配下をけしかけたように見えたかもしれない。
だが、幾許もしないうちに彼らはそれが制止の言葉と知る。
喉元に突き付けられた隠しナイフ。薄皮一枚上に煌めく銀色の鋭い切っ先に、唾を飲み込むことすらできず突っ立っている。まるで薄氷の上に知らず足を踏み入れたような面持ちだった。前に進むことも、退くこともできない。硬直したまま、ひたすらに救いを求めるような視線だけを皇帝へと向ける。
「やめろ、アル」
重ねての主の命(めい)も抑止力にはなりえず、アルフレートは暗器を握る手に力を籠めた。息のかかるほどの至近距離、茶色の双眸に、憐れみを覚えるほど恐怖に怯えた蒼白な面を映す。
「ファインハルス伯、陛下の娶られる皇后を悪し様に言うということは、引いては陛下への侮辱をなさるお覚悟と見てよいか」
「な……っ!」
男はそれきり言葉を失った。そしてよろめくように後退ったのを、アルフレートはとどめることはせず、ただ殺気とも怒気ともつかぬ硬質な眼差しを向けている。矛を収める気配はない。
皇帝は再度嘆息とともに手を振り、言う。
「これ以上アルを怒らせるのは卿らにとっても得策とは言えんぞ」
そして付け加えた。
「それに、彼の国には今、俺の弟がいることを忘れないでくれ。わかったなら一旦退がれ」
「あっ、熾己様」
扉の開く音とともに声がした。続いて姿を現した熾己に、キースは今度こそ体ごと向き直ってお行儀よく正座。ぴんと背筋を伸ばし、叱られ待ちのようにも見える。もはや目にするのも幾度目かの水浸しの彼と廊下の状況、恐らく想像に違(たが)わなかったのだろう、熾己がひとつ嘆息をついた。
「僕の名前が聞こえたから、出てきたよ」
彼の、若干抑揚の弱い話し方が、こういう時はやけに冷たく聞こえる気がする。それについてはキースも同感だったようで、面持ちが少々強張った。
それでも、熾己はこの同年代の少年の無謀なる挑戦を一度も咎めてはいない。生身の身体能力で何処まで水精に臨めるものか、意外と記録を楽しみにしているのかもしれない。
「殿下、どうなさいました」
やはり外の様子が気になるのか、部屋の奥からシェリルの声が聞こえた。キースが僅かに目線を上げる。
「あれ、先客(おきゃくさん)がいました?」
「うん」
マクレーン中尉、と熾己が言うや否や、キースは飛び跳ねるように慌てて立ち上がり、ぴしりと挙手礼を取った。『中尉』という単語に反応したのか、赤髪の女性将校が完全に扉の前に姿を現すか現さぬかというタイミング。ほとんど反射的といってもいい行動だった。同時にアシュレイも姿勢を正し右腕を持ち上げる。きっと、身に染みついた習性なのだろう。
彼らを前に、シェリルは当たり前のような仕種で自然と答礼をし、それから一調子ほど遅れて眼前の光景に対して不思議そうに双眸を瞬かせた。何故、全身濡れ鼠の少年に律儀に敬礼をされているのか。しかも熾己ではなく彼女の方が。
その状況をいつもどおりに表情のわかりにくい目で眺めながら、熾己が細い声でぽつり、と言う。
「僕にももっと敬意を持った方がいいと思うよ」
その言葉に、キースが「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
「えっと、冗談」
「熾己様の冗談はわかりにくいですよー」
「ごめん」
目の前の昏い人影が、はっきりとそう宣告する。真正面からぶつけられる憎悪。負の感情の奔流。
自分ひとりに向けて落とされる蔑みの視線が、鋭い針のように身を苛む。安っぽい紅を刷いた赤い唇に浮かぶのは、醜悪に歪んだ笑み。背中には、温かみの欠片もない冷えた壁の感触があった。ぐい、と掴まれた腕が、抜けそうに痛い。怖い、こわいよ。助けて
誰でもいいから僕をここから出して。
『その薄気味悪い瞳であたしを見ないで』
『あんたの眼の色も、その力も、まるで化け物みたいじゃない』
すぐ耳元で呪わしげな舌打ちが聞こえた。
ぎゅっ、と身を竦めるように抱きしめた、痩せた身体の至るところに浮かび上がるのは、幾つもの青黒い痣。怯えた虚ろな琥珀色の瞳でのぞむ、薄汚れた天井には、突き抜ける蒼穹も天上に住まう神もない。
あるのはただ絶望と、恐怖。
狂乱した女の金切り声が耳にこびりついて離れない。だれ? いったいだれのこえ?
(これは不必要な波紋だ)
肥大した自意識が見せる妄想。
神様は来たよ。もう全ては神の御手に委ねられたのだから。
意識に無理矢理介入するように。そう、彼は己に言い聞かせる。大丈夫、自分には何も見えていない。見えない。見えない、自分は何も知らない。
執拗に打ち消す言葉。それでも否定しきれない確かな過去(じぶん)がある。
(……おかあさん)