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未完成の言葉の欠片 / ※印は要注意orネタバレ / 二次はクリア後前提です
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period
 屋敷の主人の友人が運転手一人だけを随身に現れたのは、三月の晴れた日の、まだ陽も高い頃だった。
 帝都城下、皇宮にも程近く位置する瀟洒な邸宅。シグルト帝時代の政策で土地に対する直截的な支配権を召し上げられた帝国貴族は、地方に独自の封土を持たず、そのほとんどが帝都に住まいを用意する。そのため、屋敷も各国の上流階級が所領に置くようなカントリー・ハウスよりやや小規模なのが通例だ。
 前期ファルネーゼ様式の調和の取れた外観を有するその建築自体は、建国当初から存在する古いものだが、行き届いた手入れのお陰で経年を感じさせない。車宿りにつけて顔を出せば、十年以上の付き合いでもうすっかり慣れたのだろう、古馴染みの執事が突然の来訪にも面色一つ変えず出迎えてくれる。トップ・ハットと外套を預けながら彼は馴れた口調で言う。
「時間が少し空いたのでな。先触れもなしにすまない。ああ、これは妻(さい)が育てた花だ。何の手土産もなしでは恰好がつかんだろうと持たされた」
 彼は供の者が携える花束を示す。視線の先では小振りな花々が、控えめながらも春告げたる己達を主張している。
「花粉は落としてあるし、香りの強いものは避けたというから、後であいつの部屋にでも飾ってやってくれ」
「かしこまりました」
「今日は私人としての見舞いだ。特に構わないでくれていい」
 老執事に言い置いて、彼は勝手知ったる足取りで館の主の居室へ向かう。
 母屋の南東角、車椅子で楽に外に出られるよう、階下に一室を設えた。広い庭に面した陽当たりのいい部屋。人払いされたのだろう、周囲には誰もおらず、静かだ。そっと扉を押し開いて中の様子を伺えば、部屋の主は寝台の上のようだった。眠っているのか横になっているだけなのか、この位置からではわからない。音を立てぬよう、そろりと室内に踏み込む。毛足の長い絨毯に柔らかく体が沈み込む。
 窓硝子越しに芽吹き始めた若葉が映る。ここ数日続いた陽気のお陰で最後まで残っていた雪もすっかり溶け、新しい緑は例年より幾許か早い春の訪れを告げていた。
 とはいえ、春先の風は病身の主人にはまだ堪えるのだろう。暖炉に爆ぜる橙色の炎が部屋の空気をゆったりと温ませている。
 彼はベッドサイドに椅子をひとつ移動させて腰掛ける。
(またやつれたな)
 仰向けられた蒼褪めた面に、そんな感慨を抱く。
 半年ほど前、突如として友の躯を襲ったのは全身を侵す血液の疾患だった。倦怠感や発熱といった風邪様の症状に始まり、やがては免疫力が低下し感染症にかかりやすくなる。最初は単なる過労だろうと、発見が遅れた。たとえ早期発見ができていても、この病は化学療法が未完成の状態だ。現在も手探りの治療が進められている。投与される薬剤も強いもので、高熱に嘔吐といったその副作用で逆に瀕死に追い込まれたこともあった。
 まだ幼い息子のことを慮ってか、それとも終わりなく続く投薬を苦にしてか、入院から自宅療養に切り替えて生まれ育った屋敷に戻り一月と少し。住み慣れた環境が彼にとってはよかったのだろう、急激に悪化することはなくなったにしても、病状は一進一退を繰り返している。自力で外に出ることができるほど調子のいい日もあれば、三日間ベッドの上に縛られることもある。
 専門的なことはわからない。けれど病魔が確実に、まだ若い命を蝕んでいっていることは明らかだ。良方に向かう可能性はあれど(それでも万にひとつだ)完治することがないという病。現代の医学では不治に等しい。
 息を詰めるようにひっそりとその傍らに付き添っていれば、ややあってベッドの上の男が微かに身動ぎした。ゆっくりと視線をこちらに向ける。そして一言、
「ご公務はよいのですか」
「他に言うことがあるだろう」
 人の顔を見て、口を開くなりの第一声がそれか。彼は項垂れて答える。見舞いを嬉しがれと命じやしないが、もう少しくらい喜色を見せてくれてもいいではないか。生真面目というよりは、自分に対してだけやけに辛辣なのだ、少年時代から変わらずに。
「皇帝は友を見舞う暇(いとま)すら許されないものか?」
 言えば、アルフレートは眉根を寄せて溜息をひとつ。
「私を口実にあなたが政務を疎かになさっていると言われる身にもなってください」
「そんなくだらんことを宣う奴がいるのなら早く俺に言え」
「陛下が病人を訪うのを、嫌がる者もいるでしょう」
「うつる病でもあるまい。それとも俺が来ては迷惑か? おまえが厭だと言うのなら控える」
「……エアハルト、このように頻繁に見舞っていただかずとも、急によくなるわけでも悪くなるわけでもありませんよ」
 諭すような口調。穏やかなブラウンの双眸が自分を見る。
「それに、最近は気分がいいんです。薬が効いているのだと思います。寝ているのが逆につらいぐらいだ」
 そう軽やかに言ってアルフレートは上体を起こした。彼をよく知らぬ者が見れば、実際に快方に向かっているものと騙されたかもしれない。
 シーツの上に突かれた腕、半年前の姿からは見る影もなく痩せ細った手首が、寝衣の袖口に覗くのが痛々しい。子供のようだ、と思った。その視線に気付いたのか、アルフレートはさりげなく袖を引き伸ばす。
「おまえは本当に、息をするように嘘をつくなあ」
 嘆息とともに吐き出せば、目の前の男は力ない微笑を見せただけだった。以前に同じ言葉をかけた際は「陛下ほどではありませんよ」としれっとした顔で返してきたというのに。
「横になっていろ。俺の前で無理をする必要はない」
「あなたは全てお見通しなのですね」
「わからない方が馬鹿だ」
 言って、エアハルトはサイドテーブルに積まれた数点の書類を奥へと払いのける。騙されたと思しき馬鹿どもが持ち込んだのだろう。これではよくなるものもなりようがない。再度、枕に頭を乗せたアルフレートに向かって、彼は言う。
「今は療養に専念しろと言っただろう。おまえ一人が抜けたところで傾くような愚かな陣の組み方はしていないつもりだぞ」
 僅かに気色を曇らせたアルフレートに、不便にはなるがな、と付け加える。一個人の才覚に恃まざるを得ないようでは国家は立ち行かないし、そもそも友人という立場に胡坐をかかせ本来与え得る権限以上に重用した覚えもない。内政外政を問わず、彼の代わりとなる有能な配下は幾らでもいるのだ。父皇の時代からの忠臣のみならず若い世代も育っている。ただ、打てば響く、をアルフレートほどには期待できないだけで。
 側近の大半は古くからの貴族階級出身だ。哀しい哉、個人の打算も一族の利害も宮廷内での派閥も関係なく付き従えるということは、そうそうないと理解している。その意味では、オークスが変わり者なのだ。
「申し訳……」
「すまないと思う気持ちがあるなら、養生して少しでも早くよくなってくれた方が俺にとっては助かる」
 詫びる言葉を遮るように言を被せれば、アルフレートは「はい」と小さく頷いた。謝罪が聞きたくて通っているわけではない。しかし、こうして訪問することが逆に彼にとっては重圧となることも、わかっている。
 それでも、自分は不安なのだろう。両親と兄弟の半分は流行病であっさりと逝った。病床についてから一週間ともたなかった。長兄は無政府主義者の兇弾に斃れ、先后は長病みの末に若くして亡くなった。特に彼女には大層な不義理をしてしまった。多忙にかまけて、見舞いにも碌に訪れなかった。心の病が死に至ることなどないと高を括っていたのか、それとも恨み言を述べられるのが怖かったのか。今となっては取り返しなどつかず、後悔ばかりが拭いきれぬ澱のように降り積もっている。
 そして今回。不治の病、という認識。自分を置いて死ぬわけがない、と思う。それと同時に、いつ最期を迎えてもおかしくない、とも。医師の宣告した期限はとうに過ぎている。あるいは、という期待と、恐れ。
 思考を繕うように他愛もない会話を繋ぐ。その合間に舞い降りる静寂(しじま)に、暖炉に焼べられた薪のぱちぱちと爆ぜる音がいやに耳につく。
 二十分ほどそうして話をしていただろうか。それまで明るかった窓の外に、不意に薄く影が落ちた。太陽が雲の背後に隠れてしまったのだろう。天候が悪くなるとは聞いていないが、俄雨にでも降られると厄介だ。
 エアハルトは椅子から腰を上げ、フロックコートの裾を払う。
「そろそろ帝城(しろ)に戻るとしよう。長居をしておまえを疲れさせてもいけないしな」
 そう口にして彼は寝台にもう一歩近付く。腕を伸ばし、子供に対する仕種のようにくしゃくしゃとアルフレートの髪を掻き回した。
 稚気に呆れるばかりなのかアルフレートは無言でされるがままを通し、残念ながら少年時代のような反応はない。肩を竦めて手を引こうとしたその瞬間、
「どうせなら   あなたのために死にたい」
 掠れた声。骨の浮き出た細い指の何処にそれだけの力が残されていたというのだ、思いがけず強い力で掴まれた手首が軋む。その表情は掻き乱された前髪の陰となってよく窺えない。ただ捕らえられた箇所に触れる熱量が言葉以上の何かを訴えているようだった。
 それくらいの我執で生きてみろ、口にしようとして、しかし言葉が音にならない。
 供死にを選ぶなと、かつて自分は彼に命じた。当然のように主君のために冷酷に手を穢し、苛烈にも殉死を択ることをよしとするその関係性を変えたかった。それ以来、犠牲という選択肢を表面に出すことはなかったはずだ。今際に向かいゆくどれほどの覚悟が   それとも諦念が   彼にその内心を吐露させたのか。
『羅針盤を失った船が、目的地までまっすぐに進めないのと同じだ』
 雨の中、ぽつりと呟いた少年の言葉が想起される。
 帝国の牙、皇統の影。盲信の如くただひとりの主に寄り添い、忠誠を尽くすもの。彼の一族は常に皇家の傍らにあり、清濁併せてこの国の深部を呑み込んできた。何が彼らをそうさせるのかを、エアハルトは理解できない。誰に教わったわけでもあるまいに、三百年続く血脈に刻み込まれた因果だとでもいうのか。
(まるで呪いだ)
 初代皇帝(シグルト)と共に激動の時代を戦ったオークスの祖(かみ)は、道半ばにして無念にもその命を落とした。その悔恨を代償するかのように、連綿と続いてきた呪縛。取り去ろうとしても、できない。
 彼は動きの自由になる範囲で、己が乱した淡茶色の額髪を拭った。
「……情熱的だな」
 そうして軽口に紛らせる。(自分は卑怯だと、思う)手首を掴んでいた指先から徐々に力が抜ける。
 こちらを見上げた目の前の友人は、泣き出しそうな、笑い顔のような、複雑な色を面に載せた。それも束の間、すぐに何事もなかったかのように穏やかな表情へと戻る。
 エアハルトも同様に、努めて平然とした仕種で軽く片手を上げた。
「では、またな」
「お気を付けて」
「ああ、おまえも大事にしろ」
 そう言い残して部屋を出た彼は、閉じた扉に背を預け、天井を見上げる。右腕を翳すように持ち上げれば、赤く形の残った手首がまだ痛い。掌で目許を覆い、エアハルトは自嘲じみた笑みを唇の端に浮かべた。いっそ自分が死を命じてやればよかったのかもしれない、と頭の何処かが意識している。自身の平穏を、優先した。
 自裁をも厭わない彼らの執着と献身に、戦慄を覚える。それと同時に畏怖を。過去、それに応えられるだけの器を有した主がどれだけ存在しただろう。自分はそれに値する人物であれるだろうか。せめて賢君たらんとすることでしか、赤誠に報いる術はない。
 緩く息を吐き、エアハルトは長い廊下を歩き出す。柔らかい足音が空気に拡散する。壁一枚隔てて感じるのはひっそりとした気配。名残を惜しむように一度立ち止まり、再び彼は歩を進めた。
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cantarella

 食事の毒見をするのは、辺境から連行した異民族の奴隷だ。父皇はその旺盛な征服欲で順当に版図を拡大していっている。もはや古くからの大国・ローデシアに勝るとも劣らぬ領土を獲得し、恭順の証として差し出させた姫君の数は両手の指でも足りないが、今ではそのほとんどが家臣に下賜された。次から次を求める、まるで我儘な子供のような人だ。
 支配者というものはえてしてそうなのだろう。優秀な配下を振り回す駄々っ子、紙一重のカリスマ。血統に保持された威厳と続く戦勝という二つの魔法の効力が切れた時、人々は挙って鯨波を上げ彼を凱旋広場に引きずり出し、傲岸な為政者に断頭台の刃の粛清を浴びせるのだろう。そうなった時は己も道連れなのだ。   かつて最初の皇帝(シグルト)が旧主国の王にそうしたように。せめて、自分の生きている間にそれが起こることのないよう祈るしかない。
 テーブルの端に座るのは、名も知らぬ、言葉も通じぬ少年。南方から連れてこられたのかやや浅黒い肌を有し、丈の足りない粗末な服から伸びた両脚、その足首には枷が嵌められている。齢や背格好が己に近いのは毒の効きを勘案してのことなのだろう。醒め切った、無感情な、動かない硝子玉のような瞳をしていている。
 彼ら個人に特段の興味はないが、いつの頃からだったか、時折自室に呼んで食事の様子を見るようになった。己の代わりに死ぬ人間だ、という思いがある。最期くらい、暗く薄汚い下働き部屋の粗末な卓ではなく、柔らかい絨毯と豪奢な調度に囲まれて迎えさせてやってもいいではないか。
 人はそれを傲慢と呼ぶのだと思う。単なる自己満足であることはわかっている。
 これまでに毒見役は何人か代わったが、生憎と毒で命を落とした者はない。皆、悪質な環境と労働の末、冷たい石床の上で死んでいったのだろう。
「遅効性の毒ならどうしようもない。僕の皿にだけ毒が仕込まれているかもしれない。それより、僕は冷めた食事を摂りたくない」
 白い皿に飾り付けられた魚料理にナイフを入れながら、フィリップは言う。それに対してリディオールが微妙に気色を悪くする。
「ですが……毒味は皇后陛下からのお言い付けです」
「おまえは母上の従者か?」
「意地の悪いことを仰らないでください」
   銀食器が変色するのも系統が限られている。エッシェンバッハの曾孫娘ならその辺りは詳しいだろ」
 それも、純度の高い砒素ならば反応しないのだ。
 数多の毒を操り政敵を粛清して〈死の伯爵〉と恐れられ、その最期は自ら秘蔵の毒を仰いだものだったというフリードリヒ・フォン・エッシェンバッハ卿。五十年以上も前のことであり、今となってはその何処までが真実であったのかわからないが、彼が遺した蒐集品は確かに存在しており、その大半はフリードリヒの娘が嫁いだオークス家の手元にあるという。リディオールの言からするとそれは単なる流言ではないようだ。
 しかしカンタレラの昔ではあるまいし、現在では薬物の精製技術も上がり、その逆に検出技術も発達してきている。子供達の暗殺を過剰に恐れている母のたっての願いでなければ、わざわざ個別の毒味を置くなどしないだろう。
「兄上が生きていらっしゃる限りは僕がどうなろうと誰も気にしない。取り替えの利くただの駒(スペア)だ」
 彼は言って、切り分けた白身を口に運ぶ。
「皇子はいつも難しいことを考えていらっしゃるでしょう。そのうち天も墜ちますよ」
「おまえは単純でいいな」
「皇子の手足はものを考えて動きますか?」

十章冒頭・没にした分
「気配を消して近付かないで」
「え?」
「もう少し人間らしく足音くらいは立てなさいな」
 柵の向こうに広がる遠景に視線を注いだまま、こちらをちらと見ることもせずに彼女は言う。素っ気無い口調の指摘に一瞬考え込み、そしてようやく意味を把握した。
「あ、ごめん」
 忠告に対し軽く謝ってから、視線を落としたヴァルトは自分の足元を見つめる。配慮が足りない。ここ最近、自分が感じているよりもずっと憔悴しているようだと思った。両の手をポケットに突っ込んだままトントン、と二、三度靴底で床を踏みしめるように音を立て、改めて白衣姿の金髪の女史に近付く。一からやり直しだ。
 彼らがいるのはヴィルノア基地の本部棟屋上だった。広大な基地の全貌を見渡せる開けた視界、頭上には雲一つなく高く澄んだ晩秋の空が広がる。晴天だ。基地の併設するヴィルノア市側を望めば、街路樹はすっかり赤や黄に色付いて、昼夜の寒暖差を物語っている。
 大陸の中でもやや北寄りに位置する帝都に比べれば、冬へと向かう気候の下り方は緩やかとはいえ、風は冷気を含んで、上着を身に着けていても少し肌寒い。
「俺、ぼうっとしてたみたい。すみません」
 もう一度謝罪の言葉を口にして隣に並ぶ。するとフレイアは小さな嘆息とともに彼の方へと振り向いた。険の強くも見える翠色の瞳も、今は出来の悪い弟に対するように半ば諦め混じりだ。事実、同年の妹を持ち己の父親の小さな『友人』でもあった彼女は、生まれてからこの方常に姉代わりのような存在だから仕方ない。
「自覚症状がない辺りで最悪よ。あなたの場合、基本(デフォルト)がそれというのも問題があるけれど」
「いや、だから悪かったって、謝ってるじゃないですかフレイアさん?」
「わたしに謝るより、これからは気を付けなさい」 
   っかりました。というか、どうしてあなた達は気付くんだろう」
 これではオークスの面目が立たない。屋上とその先を占める中空とを隔てる腰の高さほどの柵に対し、つっかえ棒のように腕を伸ばして言えば、「あなた、達?」と彼女は怪訝に眉を顰める。
「この前、ルーファス殿下にも怒られました」
「あなたが威嚇したんでしょう」
「ちょっと大人げなかったね」
「……呆れた」
 
09/03/20
 カタカタと小刻みに陶器の触れる耳障りな音がする。己の右側、斜に視線を上げれば、二十歳前後だろう、使用人らしいエプロン姿の娘が震える手で紅茶のカップを支えていた。慣れていないのかそれとも緊張の所為か、見ていて危うさを感じさせる手つきだ。その皿がテーブルに乗る前に零されては堪らない、思わず自分から手を出してソーサーごと受け取ってしまう。上品なアンティークのカップの中で、鮮やかに赤く透き通った液体が小さく跳ねる。
 はっ、と一瞬目を見開いた娘は、次に消え入りそうなか細い声で「申し訳ありません」と言った。伏せられた青磁色の瞳、フリルで縁取られた白いキャップから僅か零れる髪は鳶色をしていた。化粧っ気のない痩せぎすの面が映す血色は決してよいものとはいえず、美の範疇からは程遠いが、首筋の折れそうに華奢な様子が儚さを感じさせる。
「手を怪我しているの?」
 言葉をかければ、彼女は青白い顔を更に蒼褪めさせて、ときゅっと握った拳を後ろに隠してしまう。その拍子に手首の金属片が揺れた。
(番号札?)
 目を凝らそうとしたところで、それはひとつの声に遮られる。
「お優しいことですね、熾己殿下」
 そう口にするのは対面に座す青年だった。彼は言いながら、緩く波打つ淡い金の髪が左目にかかるのを、鬱陶しそうに払う。
「それともお医者の性、というものですか? 怪我人や病人を前におとなしくしてはおれない、」
 皮肉げに笑みを歪ませた口許。決して好意から発せられた言葉ではないのだ。
 西領総督カーラマインが嫡子、ユストゥス。帝国皇家と東西南北四領の総督家は祖(かみ)を同じくし、最初の皇帝(シグルト)の血を受け継ぐ。他国でいう公の家柄であり、歴代皇女の最も多い降嫁先でもあったのだから、血族としては遠縁に当たるのだろう。だが、こうして対面してみたところでその実感はない。
 強いていえば、面差しが僅かながら二人の兄に   年頃の所為か   似ている気がする。彼らの容姿はシュヴァイツァー伯爵家出身の前皇后(ははおや)譲りだというから、目の前の男にも同じく伯爵家の血が入っているのかもしれない。しかしうろ覚えの系譜を辿ったところで、自力では正解を見出すことはできなかった。世情に詳しいあの金髪の女医なら知っているかもしれないが。後で聞いてみよう、と思う。
 彼の言葉を聞き流す振りをして、熾己はひとたびテーブルに置いた紅茶のカップをもう一度手にする。その明るく澄んだ色合いと芳醇な香気から、ローデシア属領バラト南東部産のジャーナ茶葉を使っているようだ。ローデシアといえば、朝の起き抜け(アーリー・ティー)から夜寝る前(ナイト・ティー)までまさに紅茶に始まり紅茶で終わるような国で、かの王国は良質な茶葉を独占するためだけに、その産地であるバラト一帯を支配下に治めたとまで言われている。かつてのヴァルファムも茶輸出入の主導権を握るために何度か侵攻を繰り返したようだが、結局権益の一部を開放させただけで獲得には至っていない。
 ゆっくりとカップに口をつければ、温かみと独特の渋みを伴った味が広がる。ジャーナ茶葉はミルクティーに向いた品種だが、それなら好みの煮出し式で飲みたかった。
 眼差しを感じてふと顔を上げる。前方の窓硝子、己の後ろに人影が映っていた。給仕の娘が未だ背後に立っているようだ。
「何をしている。早く退がれ」
 彼が気付くのと時を同じくして声を発した主人(ユストゥス)の叱責に、娘は慌てて盆を抱えて一礼する。そして白いエプロンとロングスカートの裾を翻し、ドアの隙間から身を滑らせるようにして出ていった。静かに扉が閉まる。
 熾己は緩やかに視線を戻す。
 百年ほど前のエトルリアで栄えた前期サヴェリオ朝風の調度で揃えられている。装飾過多(デコラティヴ)で有名な意匠は、繊細で調和の取れたファルネーゼ様式に慣れた目には落ち着きのない内装と映る。
「今の彼女は?」
 カップをソーサーの上に戻し、熾己は自分の手首を示して言う。番号札を身に着けるなぞ、普通の下働きではないだろう。もしくは目の前の男がよほどの悪趣味か、だ。
「収容所(KZ)に収監されている囚人ですよ。メイドの数が足りないので、奉仕活動をさせる代わりにここで使っているのです」
BABEL II - 2
 半ば逃げ出すような形で〈女王〉の館を後にし、薄暗い路地裏で彼はコートに包まれた躰を震わせる。あのままでは精気まで吸い取られかねないところだった。女は恐ろしい。短く舌打ちして、クリスはポケットに手を突っ込む。ここはおとなしく自宅(うち)に帰って寝直すべきだ、そうしよう。灰色の天を見上げて彼は自分に言い聞かせるように独りごちた。
 陽の射さない界隈を行くには、薄手の羽織ではやや厳しい。夜の間の方がまだ暖かかったくらいだ。
 ここ第五都市(エリヤ)では、四季の別は僅かしかなく、一年を通して荒涼とした気候が続く。よくて晩秋、厳しければ冬の寒さで、春や夏といった季節はもはやこの地から失われてしまったようだ。重たい雲に覆われた空に太陽はめったに姿を現さず、たとえ珍しく顔を覗かせたとしても、視界の大部分を占める威圧的な尖塔の輪郭線が射光の多くを遮ってしまう。
 コートの前を掻き合わせて、彼は歩き出した。
 今の時間ならまだあのお嬢さまも帰っていないだろう。一本約三時間のシリーズ映画を計六本、単純計算でも十八時間かかる。不眠不休の耐久視聴レースをするわけでもなし、そこにおこさまの睡眠時間を算入すれば最低でも二日仕事だ。
(よくもまあ……飽きないな)
 戒音にとっては初鑑賞だろうが、アーチィにしてみればもはや何度目かわからない。一度付き合わされかけたことがあるが、データだけいただいて鄭重にお断りした。
 彼の遺産(アンティーク)好きはそれはもう年季の入ったもので、第二層を出奔する前、それこそ子供の頃からの趣味らしい。ここ第一層の文化水準に照らし合わせれば、そんな旧文明の置き土産が残されていること自体想像もつかないし、娯楽の統制された施政者階級の目に触れることもない。が、件の塔の中に勝るとも劣らぬ裕福さを誇る第二層、外の世界(アウター)ではそれが当たり前であるのだろう。どのようにしてかは知らないが   まあなんであれ非合法な形であるには間違いない   それらのデータをアーチィは今でも蒐集している。
 例のずんぐりとした彼の自作自律機械(エマニュエルさん)も、元はといえば古い映画の中に登場するロボットがモデルだ。しかし冒険活劇の中に描かれていたフィクションは、相変わらず今もフィクションのままで、現実には宇宙旅行はおろか、大陸間移動もままならなくなった。
 カタストロフを迎えた世界は大きく分断された。崩壊後を生き残った人類はそれぞれ地理的に孤立した十二の都市と僅かな居住区(エクメーネ)にしがみつき、あとは暗黒の絶滅地帯(アネクメーネ)が何処までも広がるばかりなのだ。
 第五都市・エリヤの中でもそれは同じようなもので、〈塔〉とそれを取り囲む第一層、さらにその外に広がる第二層は大きく断絶している。〈塔〉は言わずと知れた施政者たち   つまり第五都市の支配階級の居所であり、その基底部を取り囲むように円周状に寄り添い、区画のほとんどを〈塔〉の日陰に占められる第一層は貧民の住処。そして第二層は例えれば郊外、中産中流以上である市民階級の人々が住まう街だ。お互いの行き来は、数少ない例外を除けば、できない、ということになっている。少なくとも、第一層の人間が〈塔〉や第二層に出向くことのできる可能性は、万にひとつかそれ以下だろう。〈塔〉の門では血の選別、第二層の手前には高い壁が立ちはだかっている。どちらも浮浪の民を寄せ付けたがらない。その隔てを超えられるとしたら、商品となって買われていくか、下手をすれば内臓(パーツ)となって出ていくか、だ。
 ここで生まれ、また、ここに流れ着いた者は、ここで生きていくしかない。どこにも行けない。二つの楽園に挟まれた掃き溜めのような下層の街、歩みを止めぬままそう思う。
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