未完成の言葉の欠片 / ※印は要注意orネタバレ / 二次はクリア後前提です
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2026.04.04 Saturday
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BABEL II - 1
2008.10.14 Tuesday
第五都市の中央、厚く雲の垂れ込める灰色の空を背に、高く聳え立つ一基の塔がある。足下に雑然と繁殖する貧民窟、汚泥の中に巣食う階級外どもを高みから傲慢に見下ろす、施政者(えらばれしもの)たちの塔 かつてありし高度情報科学文明の遺物であり今もまし理想郷の体現。地を這う人々は皮肉を籠めてそれを、バベル、と呼んだ。
「お客さァん、お寝坊さん(いつづけ)は延長料金(おだい)いただいちゃいますよォ」
未だ覚醒しやらぬぼんやりとした耳に飛び込んできたのは、間延びした女の声だった。吐息が耳朶に触れる近さで囁かれ、
「お嬢……毎度ふざけんのもいいかげんに……おれが何時に寝たと、思って……」
うわ言のように途切れがちに彼は口にする。そして側臥の上に否応なく体重をかける物体を払いのけようと、横になったまま適当に腕を振り抜いた。
件の〈天使教本(エンジェル・テクスト)〉騒動で知り合った塔の上のお姫さまは、以来、由義(おとうと)と喧嘩しただの博士(パパ)が留守だの新しい服を買っただの何かと理由をつけては下界へお忍びなさるようになった。世間知らずの少女がひとり無防備に歩き回れば女衒に攫われるのがおちのこの貧民窟(スラム)の空の下、邪険によそへ追いやるわけにも行かず そもそもそこが迂闊だった、異能力持ちの彼女が大抵の下層の住民に負けるはずがないのに 一度二度と泊めてやれば、いつしか我が家(マイ・スウィート・ホーム)は彼女の根城と化してしまった。その占拠状況といえば、少しずつ彼女の私物が増えていくことにもはや見て見ぬ振りをできないレベルにまで成長している。そしてもうおわかりのとおり、現在も絶賛居候(ホームステイ)中なのである。
しかも、平均朝七時には早々と目を覚ますあの健康優良児は、強引に灯りをつける、カーテンを開けるといった嫌がらせでは飽き足らず、こともあろうか人の上に飛び乗って相手を起こすことを覚えたのだ。こちらがたった三十分前にベッドに入ったところであろうがお構いなく。不健康不摂生を座右の銘と掲げ怠惰を謳歌する一般的な大人としては、心から御免蒙りたい所作だ。まさしく天敵といってもいい。
「飯なら……台所(キッチン)で缶詰でも勝手に……」
「アンタ最近、ほんと所帯じみてきたわねえ」
瞼を押し上げることも拒否して毛布を頭まで引き被ろうとすれば、呆れ混じりに放たれたのは、幼い少女とは似ても似つかぬあでやかさを滲ませた女の声だった。
「 っ!」
耳慣れたそれに、飛び跳ねるように上体を起こす。今まで自分が寝ていたのはフラットの己のベッド ではない。彼を取り巻いていたのはすぐ間近に壁の迫る狭い部屋、薄暗い天井、そして粗末で硬い寝台だった。頭を振って周囲を確認しているうちに、昨夜もとい明け方までの記憶がようやく戻り出す。
例の事件ののち、〈北の賢者〉ことヴィルヘルムが容赦なく奪っていった勢力範囲を取り戻すために、隙あらば人の足元を見ようとする商売相手どもと話を詰め始めたのが昨晩の十一時過ぎ。数人続けての商談からようやくほうほうの体で解放された時には、あの男をこちらの世界に引き止めるのではなかった、望みどおり引退させておけばよかったと心底後悔したものだ。肌寒い隘路に出てふと腕時計を見れば、すでに午前の四時を過ぎていた。誰も彼もお天道様の下で正々堂々と顔を突き合わせられるような間柄ではないのは重々承知だが、こういった人種の夜行性にも困ったものである。
その後は外周沿いの馴染みの娼館 といっても客としてではなく、かつて自分を拾ってくれた養母がそこを仕切っているというだけだ で従業員用の部屋を借り、そして今に至る。家に帰るより近く、また、今日は帰る必要もなかったからだ。
「っていうか華藍(ファラン)、なんでおまえがここにいるんだ」
両腿の上を占領するように馬乗りになっている旧知に向かって、彼は険しく眉を顰める。身に纏う東洋的(オリエンタル)な装束の、下半身の左脇のラインに沿って深く入ったスリットは、嫋やかな脚線を見せつけるかのように煽情的だ。まだ朝っぱらだというのに。夜ならばさほど気にならないであろう香水の匂いが、寝起きにはきつい。
「昨夜は楽しかったじゃなーい、パ・パ!」
作りものの甘えた声でふざけた台詞を放つ目の前の女を、彼は一蹴する。
「嘘つけ」
「いつもこうして起こしてもらってるのかしら、このロリコン」
「阿呆」
付き合いきれない。彼は大きな嘆息ととも掌で顔を覆う。一方、紅を刷いたつややかな唇で笑みを象った女は、勝ち誇ったようにばさり、と長い髪をかき上げた。肩口を流れるのは波を描く派手なストロベリー・ブロンドで、その鮮やかさといえば薄暗い部屋の中でも天使の輪のような光沢を放つほどだ。両の側頭部には、細い三つ編みを根元に巻き付けた錘(すい)に似た形のシニヨン。上質な絹のドレスは袖のない中華風の仕立(シノワズリ)で、鮮やかな色彩の生地に金糸銀糸による細かい刺繍で花柄の縫い取りが施されている。下層ではめったにお目にかかれない高級品(しろもの)だ。
華藍、という決して西方風ではない発音を持つ名前の割には、顔の彫りは深く、肌や髪、瞳の色素も薄い。どう見ても西側の人間のそれだった。というのも、彼女自身、己と同じくこの館の主・通称〈女王(クイーン)〉に拾われた養い子のひとりであるからだ。
また、その意味では自分の先輩ともいえる。スラムでひとり、行き倒れ寸前の自分が酔狂にして偉大なる〈女王〉に保護された時、ともにその場にいたのがまだ少女であった頃の華藍だった。
「あの可愛らしいお嬢ちゃんと相変わらず仲良くしてるのねえ。保護者(アンタ)が外泊してて大丈夫なの?」
「……お嬢ならアーチィんとこにお泊り。大昔のSF映画六本立てで見るんだと」
「ああ、あの、アンタが昔連れてきたお坊っちゃまね」
さらに言えば、同じ文脈で後輩に当たるのが、例のお嬢さまの本日の預かり先(ベビー・シッター)であり商売仲間であるアーチィことアーチボルド・ハミルトンである。
最初は、路傍に打ち捨てられた死体かと思った。泥まみれとはいえ地の身形が少しよかったから、どこかで飼われていたお人形が単身逃げ出した末路なのかもしれない、とも。実際、凍てつくような灰色の驟雨と泥濘の中、そのまま放っておけば翌朝には身元不明の少年の遺骸が一丁できあがっていたことだろう。それはこの貧民窟では日常茶飯事の光景で、決して誰かが目に留めるほど珍しいものではない。だから大した感動もなく見下ろせば、焦点の合わない翠色の瞳が、それでも確かにこちらを見た。
そのみすぼらしい姿がかつての自分と重なったのかもしれないし、ただ単に見捨てる後味の悪さを感じたくなかっただけかもしれない。そうして言葉も交わさぬまま雨の中を引きずって連れ帰ったのが、当時下働きとして厄介になっていた〈女王〉の館だった。
何の因果か今もつるむ羽目になっているのは、ひとえに、館から独り立ちする際に『あの坊やを置いていくんなら“商品(うりもん)”にしちまうよ』と煙管を吹かす〈女王〉に脅されたからだ。ぞっとして、慌てて忘れ物でも取りに帰るように部屋から引きずり出した。今思えばそれは、自分の尻は自分で拭え つまり拾った限りは最後まで責任を取れという〈女王〉流の発破だったのだろう。自分は呆気なくも簡単に引っかかったわけだ。
「拾われっ子が拾ってくるなんて図々しいもんだと、あの時は思ったけど」
形よく伸ばされた爪で、華藍は尖らせた赤い唇をなぞる。
「おまえも同じようなもんだろ。おれを見つけたのはおまえなんだから」
「あたしは『子供が落ちてる』って〈女王〉に報告しただけよ」
「大して変わらん」
言って、欠伸をひとつ。覚醒の魔法も解けて、元通りに睡魔が幅を利かせてきた。頭がふらふらとして姿勢を保てない。
「で、華藍、近況報告と昔語りはそろそろにしておれは眠りたいんだが。……脚痺れてきた」
粗末なベッドのなけなしの温もりに誘われるまま上体を後ろに倒せば、未だ人の太股の上に陣取り続けている華藍がしなを作るように身をくねらせる。
「やぁん、こんな美女が傍にいるのに普通に寝ちゃうおつもり?」
「何をいまさら、おまえが裸で隣に寝てたって熟睡できるわ」
「クリス……」
引き攣った唇が横に伸ばされる。淡青の瞳からはすっかり笑みの色が消え失せている。
「そんな強がり言っても身体は正直よーおほほほほ」
わざとらしい高笑いにもはや反論する気も失せる。下肢を這う蛇の指、錘形のシニヨンが悪魔の角のように見えた。苦い顔を腕で覆って、彼 クリスは喉の奥から呟いた。
「なんでもいいからおれを寝かせてくれ……」
「お客さァん、お寝坊さん(いつづけ)は延長料金(おだい)いただいちゃいますよォ」
未だ覚醒しやらぬぼんやりとした耳に飛び込んできたのは、間延びした女の声だった。吐息が耳朶に触れる近さで囁かれ、
「お嬢……毎度ふざけんのもいいかげんに……おれが何時に寝たと、思って……」
うわ言のように途切れがちに彼は口にする。そして側臥の上に否応なく体重をかける物体を払いのけようと、横になったまま適当に腕を振り抜いた。
件の〈天使教本(エンジェル・テクスト)〉騒動で知り合った塔の上のお姫さまは、以来、由義(おとうと)と喧嘩しただの博士(パパ)が留守だの新しい服を買っただの何かと理由をつけては下界へお忍びなさるようになった。世間知らずの少女がひとり無防備に歩き回れば女衒に攫われるのがおちのこの貧民窟(スラム)の空の下、邪険によそへ追いやるわけにも行かず
しかも、平均朝七時には早々と目を覚ますあの健康優良児は、強引に灯りをつける、カーテンを開けるといった嫌がらせでは飽き足らず、こともあろうか人の上に飛び乗って相手を起こすことを覚えたのだ。こちらがたった三十分前にベッドに入ったところであろうがお構いなく。不健康不摂生を座右の銘と掲げ怠惰を謳歌する一般的な大人としては、心から御免蒙りたい所作だ。まさしく天敵といってもいい。
「飯なら……台所(キッチン)で缶詰でも勝手に……」
「アンタ最近、ほんと所帯じみてきたわねえ」
瞼を押し上げることも拒否して毛布を頭まで引き被ろうとすれば、呆れ混じりに放たれたのは、幼い少女とは似ても似つかぬあでやかさを滲ませた女の声だった。
「
耳慣れたそれに、飛び跳ねるように上体を起こす。今まで自分が寝ていたのはフラットの己のベッド
例の事件ののち、〈北の賢者〉ことヴィルヘルムが容赦なく奪っていった勢力範囲を取り戻すために、隙あらば人の足元を見ようとする商売相手どもと話を詰め始めたのが昨晩の十一時過ぎ。数人続けての商談からようやくほうほうの体で解放された時には、あの男をこちらの世界に引き止めるのではなかった、望みどおり引退させておけばよかったと心底後悔したものだ。肌寒い隘路に出てふと腕時計を見れば、すでに午前の四時を過ぎていた。誰も彼もお天道様の下で正々堂々と顔を突き合わせられるような間柄ではないのは重々承知だが、こういった人種の夜行性にも困ったものである。
その後は外周沿いの馴染みの娼館
「っていうか華藍(ファラン)、なんでおまえがここにいるんだ」
両腿の上を占領するように馬乗りになっている旧知に向かって、彼は険しく眉を顰める。身に纏う東洋的(オリエンタル)な装束の、下半身の左脇のラインに沿って深く入ったスリットは、嫋やかな脚線を見せつけるかのように煽情的だ。まだ朝っぱらだというのに。夜ならばさほど気にならないであろう香水の匂いが、寝起きにはきつい。
「昨夜は楽しかったじゃなーい、パ・パ!」
作りものの甘えた声でふざけた台詞を放つ目の前の女を、彼は一蹴する。
「嘘つけ」
「いつもこうして起こしてもらってるのかしら、このロリコン」
「阿呆」
付き合いきれない。彼は大きな嘆息ととも掌で顔を覆う。一方、紅を刷いたつややかな唇で笑みを象った女は、勝ち誇ったようにばさり、と長い髪をかき上げた。肩口を流れるのは波を描く派手なストロベリー・ブロンドで、その鮮やかさといえば薄暗い部屋の中でも天使の輪のような光沢を放つほどだ。両の側頭部には、細い三つ編みを根元に巻き付けた錘(すい)に似た形のシニヨン。上質な絹のドレスは袖のない中華風の仕立(シノワズリ)で、鮮やかな色彩の生地に金糸銀糸による細かい刺繍で花柄の縫い取りが施されている。下層ではめったにお目にかかれない高級品(しろもの)だ。
華藍、という決して西方風ではない発音を持つ名前の割には、顔の彫りは深く、肌や髪、瞳の色素も薄い。どう見ても西側の人間のそれだった。というのも、彼女自身、己と同じくこの館の主・通称〈女王(クイーン)〉に拾われた養い子のひとりであるからだ。
また、その意味では自分の先輩ともいえる。スラムでひとり、行き倒れ寸前の自分が酔狂にして偉大なる〈女王〉に保護された時、ともにその場にいたのがまだ少女であった頃の華藍だった。
「あの可愛らしいお嬢ちゃんと相変わらず仲良くしてるのねえ。保護者(アンタ)が外泊してて大丈夫なの?」
「……お嬢ならアーチィんとこにお泊り。大昔のSF映画六本立てで見るんだと」
「ああ、あの、アンタが昔連れてきたお坊っちゃまね」
さらに言えば、同じ文脈で後輩に当たるのが、例のお嬢さまの本日の預かり先(ベビー・シッター)であり商売仲間であるアーチィことアーチボルド・ハミルトンである。
最初は、路傍に打ち捨てられた死体かと思った。泥まみれとはいえ地の身形が少しよかったから、どこかで飼われていたお人形が単身逃げ出した末路なのかもしれない、とも。実際、凍てつくような灰色の驟雨と泥濘の中、そのまま放っておけば翌朝には身元不明の少年の遺骸が一丁できあがっていたことだろう。それはこの貧民窟では日常茶飯事の光景で、決して誰かが目に留めるほど珍しいものではない。だから大した感動もなく見下ろせば、焦点の合わない翠色の瞳が、それでも確かにこちらを見た。
そのみすぼらしい姿がかつての自分と重なったのかもしれないし、ただ単に見捨てる後味の悪さを感じたくなかっただけかもしれない。そうして言葉も交わさぬまま雨の中を引きずって連れ帰ったのが、当時下働きとして厄介になっていた〈女王〉の館だった。
何の因果か今もつるむ羽目になっているのは、ひとえに、館から独り立ちする際に『あの坊やを置いていくんなら“商品(うりもん)”にしちまうよ』と煙管を吹かす〈女王〉に脅されたからだ。ぞっとして、慌てて忘れ物でも取りに帰るように部屋から引きずり出した。今思えばそれは、自分の尻は自分で拭え
「拾われっ子が拾ってくるなんて図々しいもんだと、あの時は思ったけど」
形よく伸ばされた爪で、華藍は尖らせた赤い唇をなぞる。
「おまえも同じようなもんだろ。おれを見つけたのはおまえなんだから」
「あたしは『子供が落ちてる』って〈女王〉に報告しただけよ」
「大して変わらん」
言って、欠伸をひとつ。覚醒の魔法も解けて、元通りに睡魔が幅を利かせてきた。頭がふらふらとして姿勢を保てない。
「で、華藍、近況報告と昔語りはそろそろにしておれは眠りたいんだが。……脚痺れてきた」
粗末なベッドのなけなしの温もりに誘われるまま上体を後ろに倒せば、未だ人の太股の上に陣取り続けている華藍がしなを作るように身をくねらせる。
「やぁん、こんな美女が傍にいるのに普通に寝ちゃうおつもり?」
「何をいまさら、おまえが裸で隣に寝てたって熟睡できるわ」
「クリス……」
引き攣った唇が横に伸ばされる。淡青の瞳からはすっかり笑みの色が消え失せている。
「そんな強がり言っても身体は正直よーおほほほほ」
わざとらしい高笑いにもはや反論する気も失せる。下肢を這う蛇の指、錘形のシニヨンが悪魔の角のように見えた。苦い顔を腕で覆って、彼
「なんでもいいからおれを寝かせてくれ……」
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ハピネス・ケイジ
2007.11.11 Sunday
マダム・マッダレーナの有する、所謂〈紳士の社交場〉〈背徳の館〉から連れ出され、異邦の少女が与えられたのは瀟洒なアパルトマンの一層(フロア)。公園の傍ら、中産階級が多く居を構える辺り。帝大にも近く、窓から望めるひとつ筋向こうの古書店には学生らしき姿をよく見る。
ここを訪れるのは、本来の主と、通いの女中と、女家庭教師(ガヴァネス)達だけだ。家庭教師は皆、身分卑しからぬ爵位持ち(いえがら)の貴婦人ばかり(後に知ったことだが、かつて貴族が貴族を教育していた頃、上流階級女性にとって家庭教師は唯一の名誉な職だったらしい。今や彼女達は〈完璧な淑女〉として労働から手を引き、ガヴァネスは専ら力を付けた中流富裕層の職業となった。しかしそれを選ばなかったのは彼の信条によるものなのだろう)。読み書き、文法、発音は毎日一から習う。礼儀作法に詩作朗読に宮廷舞踏(コート・ダンス)、そして週に二度のピアノ・レッスン。
しかし今日は肝心のピアノ教師(フラウ・フォン・ローエングリン)が休みだ。
それを告げにやってきたのは、彼女を苦界から連れ出した青年本人だった。中年の女中が迎え入れた銀の髪の青年を「せんせい」と消え入りそうな声で少女が呼べば、彼はピアノを指し示す。今日一日、フラウの代理だと言う。緊張気味に彼女は楽譜を掻き集めて、ピアノの前に座る。
スケールとアルペジオで手を慣らし、彼が選んだのは古典派の練習曲(エチュード)。人差し指の先が拍を取るようにピアノの外郭を叩く。
危なっかしげな指使いで、少女は譜面を追っていく。先週、フラウと復習(さら)ったばかりの作品集だ。フランシス・セルベルの『二十の練習曲』の一。この作品集(セルベル)は少女の進度にはまだ早いが、耳慣れた曲目が揃っているので馴染みやすかろう、という選択理由だった。
鍵盤と楽譜、交互に視線を行ったり来たりさせながら、少女は必死に黒い音符の群れを追い駆ける。作品集を、前から順番に。一曲目と二曲目はたどたどしさは残るものの巧くいった。彼は運指やペダル使いの、最低限の指摘しかしない。それも、一曲を最後まで自由に弾かせてから、だ。フラウ・ローエングリンのレッスンでは中途で止められることが普通だったから、少し不安になる。
そして、三曲目。別名を『エステルのための小作品』といい、セルベルが早熟な己の姪のために作った練習曲だ。『二十の練習曲』の中でも特に有名な旋律を持つ。けれどこの曲の中で、どうしても一箇所、詰まってしまう部分があった。何度も間違いすぎて、そこに差し掛かると勝手に指が強張ってしまうのだ。完全に癖になっている。
今回も、固まった指先が跳ねた。
注意を受けるよりも先に、急いで彼女は一小節手前に戻って弾き直す。“先生”は口を挟むこともなく、黙って少女に演奏を続けさせる。そしてD.C.(ダ・カーポ)から冒頭に戻り、再び同じ箇所。
(また、おなじところを)
鍵盤の上に置いた五指が震える。顔を上げることができない。傍らに立った彼の、右手を持ち上げる気配。
叩かれる!
身構えてきつく目を瞑る。しかし幾ら待っても、覚悟していた衝撃が訪れることはなかった。
恐る恐る、ゆっくりと薄目を開く。楽譜(スコア)をめくる音。一枚前のページへ。白手袋に包まれた指先が五線譜の上をなぞる。外界の物に触れるのを厭うように、彼がその手袋を外すことはない。
「もう一度」
彼は気分を害した風でもなく、淡々とそう口にしただけだった。
「どうした?」
不安げに面を上げれば、見下ろされた双眸を直視してしまう。仰いだのは冴えた夜の月のような、空を透かした氷のような、そんな瞳だった。灰がかった淡い淡い青。温度のない薄氷(うすらい)の色。それを向けられると、まるで自分の躰が透明になって、芯の部分まで見透かされているような錯覚さえ覚える。
「疲れたか」彼は言い、ウェストコートのポケットから銀の懐中時計を取り出した。「もうすぐ二時間だ、休憩にしよう」
「……だいじょうぶ、です」
彼女は慌てて否定する。だが、彼は少女の小さな声など意に介さぬように、呼び鈴を鳴らす。
「茶を」
程なくして現れた女中にそう命じて、青年はソファに腰掛けた。そしてピアノの傍から動けないでいる黒髪の少女に視線を向ける。
「帰蝶」
名前を呼ぶ声。あの日、彼に与えられた名を。
気紛れの恩寵、指先から戯れに施されるひと垂らしの慈悲。期待などしてはいけないのだと、頭の何処かが冷静に命じている。いつ捨てられるかわからない、いつ捨てられてもおかしくない。大人は上手にうそがつけるのだ。――自分を売った継母のように。
お互いに本当の名も知らぬまま、そうして静かな一日は暮れていく。
ここを訪れるのは、本来の主と、通いの女中と、女家庭教師(ガヴァネス)達だけだ。家庭教師は皆、身分卑しからぬ爵位持ち(いえがら)の貴婦人ばかり(後に知ったことだが、かつて貴族が貴族を教育していた頃、上流階級女性にとって家庭教師は唯一の名誉な職だったらしい。今や彼女達は〈完璧な淑女〉として労働から手を引き、ガヴァネスは専ら力を付けた中流富裕層の職業となった。しかしそれを選ばなかったのは彼の信条によるものなのだろう)。読み書き、文法、発音は毎日一から習う。礼儀作法に詩作朗読に宮廷舞踏(コート・ダンス)、そして週に二度のピアノ・レッスン。
しかし今日は肝心のピアノ教師(フラウ・フォン・ローエングリン)が休みだ。
それを告げにやってきたのは、彼女を苦界から連れ出した青年本人だった。中年の女中が迎え入れた銀の髪の青年を「せんせい」と消え入りそうな声で少女が呼べば、彼はピアノを指し示す。今日一日、フラウの代理だと言う。緊張気味に彼女は楽譜を掻き集めて、ピアノの前に座る。
スケールとアルペジオで手を慣らし、彼が選んだのは古典派の練習曲(エチュード)。人差し指の先が拍を取るようにピアノの外郭を叩く。
危なっかしげな指使いで、少女は譜面を追っていく。先週、フラウと復習(さら)ったばかりの作品集だ。フランシス・セルベルの『二十の練習曲』の一。この作品集(セルベル)は少女の進度にはまだ早いが、耳慣れた曲目が揃っているので馴染みやすかろう、という選択理由だった。
鍵盤と楽譜、交互に視線を行ったり来たりさせながら、少女は必死に黒い音符の群れを追い駆ける。作品集を、前から順番に。一曲目と二曲目はたどたどしさは残るものの巧くいった。彼は運指やペダル使いの、最低限の指摘しかしない。それも、一曲を最後まで自由に弾かせてから、だ。フラウ・ローエングリンのレッスンでは中途で止められることが普通だったから、少し不安になる。
そして、三曲目。別名を『エステルのための小作品』といい、セルベルが早熟な己の姪のために作った練習曲だ。『二十の練習曲』の中でも特に有名な旋律を持つ。けれどこの曲の中で、どうしても一箇所、詰まってしまう部分があった。何度も間違いすぎて、そこに差し掛かると勝手に指が強張ってしまうのだ。完全に癖になっている。
今回も、固まった指先が跳ねた。
注意を受けるよりも先に、急いで彼女は一小節手前に戻って弾き直す。“先生”は口を挟むこともなく、黙って少女に演奏を続けさせる。そしてD.C.(ダ・カーポ)から冒頭に戻り、再び同じ箇所。
(また、おなじところを)
鍵盤の上に置いた五指が震える。顔を上げることができない。傍らに立った彼の、右手を持ち上げる気配。
叩かれる!
身構えてきつく目を瞑る。しかし幾ら待っても、覚悟していた衝撃が訪れることはなかった。
恐る恐る、ゆっくりと薄目を開く。楽譜(スコア)をめくる音。一枚前のページへ。白手袋に包まれた指先が五線譜の上をなぞる。外界の物に触れるのを厭うように、彼がその手袋を外すことはない。
「もう一度」
彼は気分を害した風でもなく、淡々とそう口にしただけだった。
「どうした?」
不安げに面を上げれば、見下ろされた双眸を直視してしまう。仰いだのは冴えた夜の月のような、空を透かした氷のような、そんな瞳だった。灰がかった淡い淡い青。温度のない薄氷(うすらい)の色。それを向けられると、まるで自分の躰が透明になって、芯の部分まで見透かされているような錯覚さえ覚える。
「疲れたか」彼は言い、ウェストコートのポケットから銀の懐中時計を取り出した。「もうすぐ二時間だ、休憩にしよう」
「……だいじょうぶ、です」
彼女は慌てて否定する。だが、彼は少女の小さな声など意に介さぬように、呼び鈴を鳴らす。
「茶を」
程なくして現れた女中にそう命じて、青年はソファに腰掛けた。そしてピアノの傍から動けないでいる黒髪の少女に視線を向ける。
「帰蝶」
名前を呼ぶ声。あの日、彼に与えられた名を。
気紛れの恩寵、指先から戯れに施されるひと垂らしの慈悲。期待などしてはいけないのだと、頭の何処かが冷静に命じている。いつ捨てられるかわからない、いつ捨てられてもおかしくない。大人は上手にうそがつけるのだ。――自分を売った継母のように。
お互いに本当の名も知らぬまま、そうして静かな一日は暮れていく。
07/07/21
2007.07.21 Saturday
「どのような形にしろ、私はあなたの人生を変えてしまった。この国に来たことを後悔してはいませんか。私を恨んではいませんか」
「わたしは、あなたと共に在れて幸せだったぞ」
「それはよかった」
安堵したように笑うその表情はあの頃と変わらない。
「どうせなら共に年老いたかった。こればかりは経(ふ)らぬ我が身を呪いたくなる」
「わたしは、あなたと共に在れて幸せだったぞ」
「それはよかった」
安堵したように笑うその表情はあの頃と変わらない。
「どうせなら共に年老いたかった。こればかりは経(ふ)らぬ我が身を呪いたくなる」